深く息を吐く

自省用

昭和時代の私の実家

息子のための新しい自転車を見に行って、自分の小学生のころを思い出した。(注:ハートウォーミングな話ではありません。)

 

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私が小学3年生くらいのある日

両親に「新しい自転車が欲しい」とねだったら数日後父はどこからか放置自転車をもってきて「これにスプレーで色をつければ新品みたいになる」と言って、カラースプレーをかけた。塗る作業は楽しかったけど、素人が塗った感満載のイカさない自転車ができあがった…。微妙な気分だったけどその時は嬉しかった。

1年くらいはその自転車に乗っていたように思う。当然からかう子がいる。だんだん恥ずかしくなって、ガタもきて、やっとの思いで新品を買ってもらった。(ちなみに小・中学生時代は概ね80年代です)

思えば、うちは質素だった。

おもちゃは家にほとんどなかった。覚えてるのはソロバンが大きくなったようなものくらい。小さいころは虫で遊んでいたから気にならなかったけど、小学生になると友達の家のおもちゃの多さに驚いた。羨ましかったけど、ウチは多分無理だなと子供心に悟ってねだることはあまりなかった。ファミコンはきょうだいの熱い情熱で遅ればせながらなんとか買ってもらえたのは幸いだった(83年発売…!84年には買ってもらったような)

お稽古や習い事も何もしなかった。きょうだいも。何かしたいと思ったわけではないけど、何も習ってない人はクラスでは稀だった。

うちは少しみんなの家とちょっと違う?と思いはじめたのはこの自転車の頃からだった。きょうだい揃って赤ちゃんの頃の写真が一枚もない。写真があるのは七五三くらいから。戸籍ではばっちり実子だったので、単に撮ってなかったようだ。カメラがなかったのか仕事で余裕がなかったのか分からないけど、とにかくない。

家族で泊まりの旅行もしたことはない。母の実家に盆暮れに泊まりに行くのが唯一の楽しみだった。外食は年に1〜2回だったような気がする。

中学の入学前のある日

入学式を数日後に控えた頃、母が「学校指定のスポーツバックがあるから、学生カバンはなくてもいいよね?」と言った。私は耳を疑った。うちは農家だから土地はいっぱいあるのに、そんなカバンも買えないほど貧乏なのかとビックリした。ずいぶん私がしょんぼりしていたのか、入学式の前日の夜に学生カバンを買ってきてくれた。このときも微妙な気持ちだった。

 

うち、お金ない? 

小学校の頃、うちは祖父母だけでなく曾祖母もいて、さらに父の弟たちも一緒に住んでいた。「祖父のいうことが絶対」の家父長制の家だった。母はよくそんな家に嫁いだものだと感心する。「あの時代は女の人はそういうものだったのよ」と言うが、祖母と母でいっさいの家事を切り盛りしてる姿をみて、小さい頃から「私は母のようにはできない」と思っていた。

祖父はプライドが高い人だったから、親戚付き合いでケチるということは多分してなかった。お盆は必ずお坊さんがお経を唱えにきた。ムラ的な会合もよく家でやっていた。ひな人形やカブトは立派なものがあったのを覚えてる。市のナントカ協会の役員もやってた。(賞状だけ色々もらってたが父いわく報酬はなかったらしい)研修か何かの旅行にもよく行ってた。

祖父は父が30代の頃、家業を継がせた。そのときに祖父が作ったいくらかの負債も父にバトンを渡したようだ。あと私がまだ幼稚園かその前、叔父たちはまだ私学の大学生で地方に下宿していた。その学費や食費は祖父と父で稼いだお金の中から出していたようだ。

今になって思うと、両親は本当に大変だったんだろう。思えば祖父は父にとって「毒親」だったと思う。祖父は子どもの前でもよく父を怒鳴りなじった。暴力はなかったが言葉の暴力はかなりあった。その後の父の対応も悪かった。その場しのぎで、祖父の言うことをあまり実行しなかったようだ。何事も「親子で相談してる」という感じはなかった。だから家のお金のことはアンバランスだった。祖父が無駄遣いしてるわけではなかったが、どんぶり勘定な父は次第に借金をふくらましていった。誰かに相談すればいいのに父は一人でなんとかできると思ってたようだ。それは祖母が亡くなる頃になって発覚するのだが…。

 

核家族の友達の家とくらべると、ウチは不自由なことが多いなあと、小学生の頃から肌で感じていた。

 

だから、「二世代同居が少なくなった現代は云々〜」みたいな話を聞くと拒否反応がでる。仲良し家族ばかりじゃないんだよ…